寄稿

植田 肇先生を偲ぶ

前田武和

 植田先生の頃には実務補習所は無かった。
 公認会計士法が施行された当初は、正規の公認会計士試験とは別に、計理士や税務代理士など一定の資格を有する者を対象に特別公認会計士試験制度が経過的に設けられた。正規の試験では第2次試験、3年間の実務補習期間、第3次試験を経なければならないが、特別試験では合格すれば直ちに公認会計士になれる。第1回特別試験の合格者60人で、昭和24年に日本公認会計士協会は創立されたが、多事に煩わされ、かつ、関心も薄く会計士補のことは放置されていた。
 植田先生たちは、当時不遇であった会計士補の諸問題解決のための運動に取り組まれた。その中で、昭和28年の暮れには会計士補部会が発足し、昭和31年には近畿実務補習団が設立されるに至った。(因みに東京実務補習団の設立は昭和36年。)何事によらず目前の不合理には、問題を提起して正していくという植田先生の信念と実行力は、既にこの時代から発揮されていたのです。

 40年代は山陽特殊製鋼を初め倒産が相次ぎ、粉飾決算が問われる時代に入った。
 粉飾決算が話題になると、植田先生が強調されたことは、@公認会計士監査は投資家のためにあること、すなわち、監査人は会社に対する守秘義務を前提に会社の中に入り込み会社に正しい決算をさせるよう指導する義務があること。A日本人の通例として義理人情には弱いが、公認会計士の精神的独立性はこれに打ち勝つ強さが求められること、でした。
 昭和48年の日本熱学工業の粉飾決算では、当時近畿会の副会長であった植田先生は自ら裁判記録を入手するなど状況を把握した上でジャーナリストに丁寧な対応をされました。
 「もともと公認会計士の監査制度は、会社の不正を暴くためのものではない。会社に正しい決算をさせるのが本旨であり、それが出来なかったとき、やむを得ず事実を指摘するにすぎない。それには絶えざる助言、勧告もなされており、報酬を受けるのは当然である。」と説いて、個々の公認会計士と会社の自由契約制度が一番良いことを主張されました。
 自由契約制度の下では、公認会計士が自由業であること、独立性堅持が求められること。結果は自己責任に帰すること、を述べて「今回の日本熱学事件では、初めて公認会計士に対する損害賠償請求訴訟が提起された。欧米並みに公認会計士に対する責任追及が始まった。監査契約を失うことのみ恐れていては、それよりはるかに大きい責任を負担させられることが明らかになった。」と意義付けをされた対応ぶりは立派でした。

 奥様に先立たれた後、ご子息の家族に頼らずお一人で生活されました。「家事を含めた1日はとても早く暮れるのですよ。」といいながら貫徹されたのは立派です。参考にさせていただきます。ご子息のお計らいで老人ホームに入られたのも正解です。お葬式に伺って遺影のお元気なお姿、お棺に花を捧げたときの安らかなお顔を拝謁して安堵しました。安らかにお休みください。瞑目。