寄稿

稲田政治先生のご逝去を悼む

畑下辰典

 稲田政治先生は、本年4月27日ご逝去され、その報せを15日程遅れて受けた。誠に残念の極みであり、直ちに長文の弔電を送ったがここに先生を偲び一文を草させていただく。
 先生は戦前昭和18年 大阪専門学校商学科の卒業だが、この年、戦時特例で大学・高専学生の徴兵猶余が廃止され、半年間の繰上げ卒業となった。翌年、海軍予備学生として入隊され、昭和20年6月 海軍少尉に任官したが、8月終戦で除隊となった。
 戦後新しく制定された公認会計士法(昭和23年)の特別試験を計理士登録者として受験し、見事合格された1期生であり、公認会計士登録番号は第29号である。日本公認会計士協会を直ちに60人程で発足した創業者である。私は昭和27年、第二次試験第4回の合格の会計士補となったが、第三次試験を受験する先輩も、まさに自ら生活の道を切り拓き、指導公認会計士を探して実務補習、業務従事をさせて貰う手探り時代の経験者である。翌年第5回の合格者を加えて連絡をとり、現状把握につとめ、任意機関として中央大学設置の実務補習所を協会として近畿にも設置すべきだという要望を取りまとめた。
 その頃、関西支部から近畿支部(今の近畿会の前身)になった役員で、指導部長を担当しておられたのが稲田先生であり、我々は代表とともに交渉したが、先生は協会も人数が少なく、君達が内に入って活動するのが目的達成の早道であると諭され、会計士補懇談会として動いていた我々は、大量入会の条件として仕事のない我々の負担軽減のため、入会金の免除を求めることとして再交渉し、後日の役員会に指導部長の提案で承認され、20数名が入会し会計士補部会を設置して運動することになり、2年後、辻野士補部長を中心に補習所の講師となる当時の懇談会有志が稲田先生らの助力を得て、近畿実務補習団の設置許可を得て三次受験資格取得への道が成立したのも稲田先生の後進に対する熱き思いと積極的行動の賜物と評価するところ大である。昭和52年の近畿会役員選挙で稲田先生は会長に立候補され、対立候補なく当選。その時私は、昭和36年から連続して選挙当選で幹事をつとめてきたので、この年、副会長に立候補し選挙によって当選し、会長を補佐することになった。
 私は、任期中の未年は法制定30年に当たるので記念事業と式典をやる決意を述べ、役員会の承認で公認会計士法制定30周年特別委員会を設置し、特別委員長となった。その準備を進めていた昭和53年春、大阪で不二サッシの粉飾事件が発生し、新聞、マスコミを始め学会、産業界などの批判が厳しく、役員会では記念式典を取り止めるべきとの意見も起こったが、問題解決は再発防止のための厳しい反省の上での対処こそ重要であり、この場を決意表明の機会と捉え、社会の信頼を取り戻そうという私の主張に同意される役員の多くが実施することを確認し、昭和53年10月式典開催の実施と式典、決意表明、論文審査、写真入名簿の小委員会を設け、厚生部の囲碁・将棋・ゴルフ・麻雀・ボウリングの各委員会の準備に取りかかり、会員の協力を呼びかけて当日を迎えた。
 稲田政治会長は、挨拶の中で堂々と公認会計士の社会的責務の重要性に対する厳しい自覚と今後の改革を訴えられて決意を表明され、公認会計士法制定30周年の意義ある式典の成功をお祝いしたものである。
 稲田先生との個人的思い出を二、三述べよう。先生は近畿会きっての小唄の名手で、故逢坂勝見先生とともに東京の役員にも広く知られている。私も先生の推薦で清交社に昭和52年入社したが、多忙のため部会には参加できなかった。昨年12月誘いを断り切れず清交社小唄会に入会したが、先生は12月下旬から1月腰を痛めて欠席され、2月1日の練習会でやっとお会いし2月5日が遅れた新年小唄会だが出て来いよと言われた。
 大阪ミナミの湖月での新年会は、和敬糸師匠、清交社会員5名、糸研会3名の出席で、新米の私が最初でトリは稲田先生と二巡して発表を終わり、懇談や余興の唄、踊りで賑わったのが結局、先生との最後の会となった。
 先生は大阪九重会(大阪国税局区内の叙勲受賞者の会)の会長を数年前に任期2年を務めて退任されたが、公認会計士側では稲田先生が最初の会長で、現在、田村幾蔵先生が二人目の公認会計士の会長である。歴代会長の中にあっても遜色のない会長であった。
 本当に92才のご高齢とは云え、高潔にして風格のある方であり、近畿会の顧問会でも時に直言されたり、苦言を呈せられることもあって誠に惜しい先生を亡くした思いは強い。
 心からご冥福をお祈りし、公認会計士制度の先覚者として協会をお見守りいただきたいものである。

写真 中央 故 稲田政治公認会計士
右端  畑下辰典公認会計士