寄稿

翔る!ニッポンの公認会計士 〜ニューヨーク編

北尾俊樹

 
 私がアメリカへの赴任を希望したのは、監査の最先端のレベルというものを知りたいという単純な気持ちからでした。私の事務所には継続的にアメリカからレビューチームがやってきて、我々の監査調書がレビューされるということがあるのですが、その際のお決まりの講評は「日本の監査調書はドキュメントが十分でない」というものでした。そのコメントを見るたびに内心は、本当にアメリカではそこまでやっているのか、やっていたら、エンロン事件なんか起こらないだろうと思っており、いつかはアメリカで行っている監査を自分の目で見たいとひそかに思っていました。幸いにその機会を得る日が来て、意気揚々とNYに出発した私が見たものは、高度にシステム化された日本の監査とは異質のAuditでした。
 
業務の細分化
 アメリカでの仕事の進め方は、業務を可能な限り細分化して、より多くの人間を関わらせるような形で行われます。スタッフであれば、一日単位でこなせるような仕事の与えられ方しかしません。加えて報告も頻繁に求めるため、アサインされた人が突然いなくなっても全体の仕事への影響はほとんどありません。そのため、日本のようにスタッフが休日に働くということはあまり想定されません。というのも、週末をまたぐような仕事の与えられ方はしないので、週末にキャッチアップしようということは不可能なのです。スタッフやシニアとしては日々のマイルストーンをきちんとクリアしていくことが大切です。
 このような仕事の与え方は、特定の個人に依存しないことから、人の入れ替わりが頻繁な組織には向いていると言えます。日本では、主査レベルの交代で、混乱が起こることがありますが、アメリカでは考えられません。マネージャーの交代も特に大きな問題とはなりません。なぜなら長期のコミットメントを組織から与えられていないからです。このような業務の進め方のデメリットとしては、全体視野の欠如や責任感の喪失が考えられます。作業の細分化には限界があって、指示として表現できない部分のリスクを誰かが見ないといけないのですが、それがなかなかできません。その結果、調書が未完成のまま放置されていて、引き継いだ人も最低限のことしかしないで、いつまでも完成しないということが私の周りでありました。
 
時間管理について
 監査チームの時間管理は、日本に比べて格段に細かいです。アメリカでは8時間労働が基本ですが、その8時間ですら、一つのジョブにチャージするのは簡単なことではありません。というのも、チャージした時間は、細かく分析されて最終的にクライアントに請求する際に、その分析をベースにすることになるからです。日本の場合、報酬は固定ということが多いと思いますが、アメリカでは実際作業時間を基礎とした請求が基本となってきます。それとともに、スタッフへの時間管理のプレッシャーはかなり厳しく、かかった時間が想定を超えている場合には、厳しく問い詰められます。日本では、キャッシュアウトが発生する残業時間のチャージですら、そこまで厳しく問い詰められません。では、プレッシャーに負けてチャージしないとどうなるかというと、稼働率が低いということで責められ、解雇される危険性が高まります。一方で、多くの時間を特定のチームにチャージするとマネージャーからの評価が下がって、また解雇の危険が高まります。そのため、スタッフはアサインされている期間は必死になって仕事をします。集中して仕事をして、マネージャーが納得する時間をできるだけ多くチャージするというのが彼らの基本的思考です。また、マネージャーの側としては、クライアントへの請求のプレッシャーはもちろんですし、赤字は自分の評価を下げる方向に行き、解雇の危険性が高まります。しかし、こういったやり方が機能するのは、四半期ごとに誰かが解雇されていくという緊張感があってのことと言えます。
 
ドキュメンテーションの意味
 アメリカではドキュメンテーションとは、発信側が受信側に理解させないといけないものと考えられています。この点は、日本と反対です。日本では、読み手が書き手の意図を汲むような読み方をすることが期待されています。ある手紙や文章を字面どおりに読んでは、教養がない人と思われる可能性があります。逆に発信するときは、いわずもがなのことは言うべきではありません。しかし、アメリカではいわずもがなのことも言わないといけません。この背景には、様々な文化が交じりあっている故に常識も一つでなく、予断をもって文章を読むことはかえって誤りを犯すことになる可能性があるので、習慣的に文章は書いてあるとおりに読むべきという考えがあるのだと思います。
 この観点からは、日本の監査調書は不十分と思われる可能性があります。監査調書の目的が連続する複数の調書で全く同じであっても、それぞれに書く必要があります。書いた人は前のページから続けて読んでもらえれば、当然わかるというようなことでも、読み手は書いた人の意図を知らないし、考えることを排除していることから、この調書には目的がないなどということが指摘されます。結局、調書の書き手としては、調書の読み手は自分と同じレベルの知識あるいは常識をもっていないという前提に立って記載しないといけないのです。このことは、監査調書だけでなく、お客さんとのemailのやりとりの際も同じで、相手が理解してくれなかったら、自分の責任となるので詳細をきちんと書かないといけないのです。
 
ニッポンの監査はどこへ
 2年の滞在を終えて帰国する機内、私はNYを離れて寂しいという気持ちよりも、ほっとした気持ちでいました。それは、NYの厳しい競争社会の中で、いつ日本に帰されるかわからないと常に緊張していたからであり、また、上記に書いたような機械的な監査、管理の仕組みというものへの抵抗感が無意識にあったからです。しかし、帰国した私が見たものは、もう一つのアメリカでした。公認会計士試験はアメリカの様にたくさんの人が合格することを前提とした制度となり、それとともに多くの人間を採用した監査法人はアメリカ的なやり方を積極的に導入しているように思えました。会計基準も国際化する中、監査のやり方も国際的な方向性を目指すのは必然かもしれませんが、監査を行う個々の会計士の心構えや監査を受けるクライアント側の準備はどうかという観点から、ニッポンの監査の在り様ということをもう一度考えてみる段階に来ているのではないでしょうか。