私の実家は、福岡県玄界灘の漁師である。子供の頃は、もっぱら早朝3時頃に出港し、近海でふぐや鯛をとり、夕方には帰港する日帰りの漁が中心であった。私と兄、姉、妹は、夕方になると交代で浜に出て帰港する船を確認するや、リヤカーを引いて船着き場に行き、両親の帰りを待つのが日課であった。台風が接近した秋や、雪が舞う冬に船の帰りを待っていると、船は大丈夫だろうか、無事に港に戻ることができるのだろうかと、子供心に心配した。
兄は、家業を継ぐために中学卒業後、漁師になった。兄は、漁師になるために生まれてきたような男である。私は、母が男たちと一緒に厳しい冬の海に出る姿を見るにつれ、徐々に芽生えた母を楽にしてあげたいという気持ちから漁師になった。中学を卒業したのが春、春の海は穏やかで、当時は魚がたくさん獲れたこともあり、経験の全てが新鮮で、漁師も悪くはない、面白いと甘く構えていた。ところが、秋が過ぎ冬の海になると海の様子は一変する。30分前までは穏やかであった青い海が、雨、雪とともに黒い荒海に変わる。穏やかな海では大きく丈夫に思えた船が、波に打たれサンドバック状態となり、船よりも高い大きな波が、船を呑み込もうとする。漁師に成り立ての冬の荒海で、ズボンカッパに隠れた足は震えていた。
父は、ふぐや鯛の延縄では右に出る者がいないほどの漁師であり、漁に取り組む姿勢には厳しいものがあった。延縄ならば何処からでも掛かってこいと言わんばかりの勢いがあった。漁場では乗組員を早朝2時半に起床させ、皆で夜の10時まで休みなく働く。3日間程度の漁を行った後、佐賀県の呼子に水槽を積んだトラックを呼び寄せ、ふぐを積んで福岡の中央魚市場や下関の唐戸市場へ水揚げさせる。我々は休む間もなく漁場に戻り漁を繰り返す。冬のふぐ漁では冷たい波で手がかじかみ、餌の油で手がかさかさになり、ひびわれて物を持つことができない状態になる。父は乗組員に構うことなく、他船が休む時化でも漁に出た。延縄に取り付けられた矢のように鋭く尖った3,000本以上の大きなふぐ針を一本一本瞬時に摘みあげ、船が上下左右に大きく揺れる状態で、船の速度に合わせ順次縄を海に垂らし込む。波の衝撃で縄や針に絡んだふぐ針をほどくために、走る縄を左手で掴み、右手で絡んだふぐ針をほどく切羽詰まった作業は命がけであった。失敗すれば、鋭いふぐ針が手や指や血管を走り貫ける。
父と兄が大きな船で東シナ海に出てもっと儲けたいという夢を語るにつれ、私も次第にその気になった。兄は、私を早く1人前の漁師にして夢を実現したいとの思いから、私にとても厳しかった。早く兄と対等に話ができる1人前の漁師になりたい一心で、延縄や釣りの技術を必死で磨いた。また、私は船の生け簀の中で獲った魚を一日でも長く、荒れた海でも艶を保ち元気に泳がせる技術の習得に励んだ。この技術の巧拙が水揚げ額に大きな差異をもたらす。他船が獲った魚の泳ぎや艶を観察し、私が手当てをした魚の泳ぎや艶と比較し、さらに上を目指した。このようなことを繰り返して6年が過ぎようとした頃、兄が私に「俺はこれに関してこのように考えるが、お前はどう考える。」と問いかけたことがあった。これが私の漁師生活の中で最もうれしいと思えた瞬間であった。その頃から漁師が面白くなり、特に荒れた冬の海で大漁に恵まれたときには、あたかも海に勝ったような爽快な気持ちになった。
私は19才の頃、駆け足で働いてきたことがたたり腰を痛めた。コルセットを装着してなんとか誤魔化しながら5年〜6年が過ぎた。腰の手術を決心する直前では、帰港中の船室で横になることができず、箱に腹をのせうずくまって耐えたこともあった。手術を受けて漁師を続けたが、やがて体力の限界を感じ、徐々に漁師への情熱を失った。私は、これで終わってたまるかという思いから漁師をやめて出直す決意をした。これは、高校受験の6ヶ月前のことである。1日の仕事を終えた漁場で停泊したときには、乗組員が寝た後、機関室で恩師から頂いた参考書を開き、また帰港して出港するまでの間も必死で高校受験の勉強をした。
私は、結局11年間の漁師生活を経験した。漁師をしたことで仕事もせずに勉強ができる素晴らしさ、有難さを実感する高校生活をおくることができた。また、長い間飯炊きを経験し、次の出港に向けて餌積みなどの準備作業やエンジンの手入れを黙々と行うことによって、下積みの辛さや人の痛みもわかるようになった。子供ができて親の有難味がわかるようになるのと同じように、会計士になって11年の漁師生活が無駄ではなかったことに気がついた。この思いが私を支えている。
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