特集

第30回日本公認会計士協会研究大会

「翔る!公認会計士 ―グローカリズム時代に果たす使命― 」

記念講演会

 研究発表終了後、NHK大河ドラマ「天地人」原作者、火坂雅志氏をお招きして「天地人を語る ―戦国の義将 直江兼続―」をテーマにして記念講演をして頂きました。会場には、日本公認会計士協会の会員・準会員のほかに、近隣の一般の方にも参加して頂き、約1,000名が集まりました。記念講演の要旨は以下のとおりです。
 はじめまして、歴史小説家の火坂雅志です。今日は宜しくお願い致します。
今年のNHK 大河ドラマ「天地人」、これは戦国の武将、智将、直江兼続の生涯を描いたものです。直江兼続は、天下人豊臣秀吉から「天下の仕置きを任せられる男なり」と言われた人物です。秀吉から、 側近の石田三成とともに、是非自分の右腕、左腕となって欲しい、自分に仕えてほしいと頼まれましたが、「自分は生涯上杉景勝様にお仕え致します」と言って、生涯主君上杉景勝を支え、名家老から名執政となって、上杉家を支えた人物です。 NHK 大河ドラマは大変歴史があり、今年の「天地人」で48回目となります。私のような現役の作家が 原作となることは、殆どありません。どうして現役作家である私の作品が、大河ドラマとなって放映さ れているのか。これは偶然ではなく、時代が呼んでいた、現代が必要としていたのではないか、どうして必要とされていたのか、ということを直江兼続の生き様、そして何を考えて、戦国という生き難い世 の中を生きていったのかという心の部分について、 お話しようと思っております。
 兼続は、新潟県南魚沼市の坂戸城下(旧国名で、越 後国魚沼郡坂戸)に生まれています。大変雪の深い 所です。日本の豪雪地帯と言いますと、必ず挙がってくるところです。5歳の時に、坂戸城主長尾政景の長男喜平次(上杉景勝)の小姓・近習として仕えます。主君景勝は、兼続よりも5歳年上の10歳ぐらいでした。十代の頃に、新潟県上越市、越後国主である上杉謙信の居城、春日山城に移ります。そこで兼続が見たのは、謙信学校とも言うべきものでし た。謙信は、若い有為の青年達を集めて、武将とし ての心構え、戦いの仕方、そして領国経営の仕方などを教えていました。その中に兼続も入っていきます。兼続は後々、戦国武将で学のある武将5人のう ちの1人に挙げられていますので、大変頭が良かった。わずか数年の内に、謙信の一番弟子と呼ばれる存在に成長していきます。謙信は、現実的な経済政策をきちんとやった武将です。戦国群雄のなかで一番の経済力を持った武将は誰かと学者の方々に質問 すると、10人が10人、上杉謙信ですと答えます。 なぜ謙信はこの様な経済力を身に付けたのかといいますと、一つは、新田開発、米の増産を行った、二 つ目は、金銀山の開発を行った、三つ目は殖産興業を行いました。越後の名産に、越後上布という織物があります。これは原料が苧麻(アオソ)といわれ る麻の一種で、高級な麻織物です。苧麻は、良いものを育てるのが大変難しく、一度畑がダメになると5年間は良いものが出来ないと言われています。栽培のノウハウを上杉家は持っていました。質の良い ものをどんどん作り出し、京都方面、大阪方面に持って行きますと、大評判となり、買付けの船がどんどんやってきまして、それによって上杉家は巨万 の富を築いていくわけです。つまり、謙信は、越後 を中心とした領国に経済大国を作ったわけです。その一方で、「義」をテーマとして掲げました。戦国時代は、日本国が内乱に陥った時代です。内乱状態 になると国が疲弊していきます。この様な状況で台頭してくる武将は、梟雄と呼ばれた武将です。謀略、裏切り、暗殺等何でもする武将が、梟雄と呼ば
れる武将です。それぐらいでないと、生き残ってい けないくらい、厳しい時代であったわけです。謙信は、それでいいのか、確かに生き残っていけるかも しれないが、あまりにも浅ましい姿ではないか、そのようなことをせずに、背筋を伸ばして胸を張って堂々と生きる術が、果たしてこの乱れた戦国乱世にあって本当に出来ないのであろうかと考え、そして掲げたのが、「義」というテーマでした。「義」というのは、私利私欲だけではなく、人との信頼関係 を大切にして、公のために何が出来るのかを念頭に置きながら行動する精神です。周りの武将たちは、 謙信がおかしなことをやりだした、あの男すぐにつぶれるぞと思ったわけです。謙信が「義」を掲げ実 践していきましたら、人が集まりだし、求心力を持ちだしました。その結果、戦国の世で一、二を争う強固な家臣団を作ることに成功します。そして、彼自身が戦国の名将と呼ばれる存在となっていくわけです。彼がやったのは、すなわち、経済大国を作 る、そしてその一方で精神的な支柱として「義」を唱える、つまり、「経済」と「義」の両立を行った わけです。
 この謙信の方法論を学んだのが、兼続です。ところが、師匠である謙信は、49歳でこの世を去ってしまいます。このとき兼続は、わずか19歳です。主君の景勝は24歳です。これまで謙信という大きな傘(庇 護)の下にいたのが、突然になくなってしまい、戦国乱世という荒波に投げ出されていくわけです。戦国は、厳しい実力主義の時代ですので、先代が栄えても次の世代が栄える保証は全くありません。謙信が突然亡くなってしまったため、遺言がありませんでした。このとき謙信には、景勝のほかに北条家か ら来た三郎景虎というもう一人の養子がいました。 この間で跡目争いがおきます。家臣団が真っ二つに割れ、一年以上も争い、その間、上杉家は大変疲弊 します。その一方で栄えていくのが、織田信長です。信長は、武田信玄、上杉謙信が生きている間 は、信玄、謙信に一度も勝ったことがありません。 謙信は、加賀手取川の戦いにおいて、柴田勝家、明智光秀、佐久間信盛、丹羽長秀といった織田の正規 軍と戦い、織田軍を大敗させております。信玄、謙 信が病に倒れた後に急成長してきたのが、信長です。信長は、天目山において武田勝頼を滅ぼすと、 すぐに上杉領に攻め込んで来ました。上杉家においても、既に謙信は亡くなっており、景勝、兼続主従 が采配をとっていました。上杉家においては、武田家ほど、まだ組織がガタガタとはなっていませんでした。そのために、とにかく国境で食い止めようと粘りに粘った戦いを行います。織田の勢力は当時群を抜いておりましたから、勝つことはできない、しかし粘りに粘って負けない戦いをしようということで、国境線で防ぎ続けたんですね。北陸路の最前線 が、越中魚津城でした。ここに上杉方の十三将をはじめ将兵が立て籠もります。織田勢の武将、勝家が 魚津城を攻め、二の丸が落とされ本丸だけとなっても十倍近い織田軍を相手に激戦を演じていきます。 80日以上に渡って粘り続けますが、最後は衆寡敵せ ずに本丸は落とされてしまいます。その魚津城が落ちた次の日に、上方から早馬が来て、本能寺の変が知らされました。これによって上杉家は、絶体絶命のピンチから救われます。
信長亡き後の政権を引き継いだのが、豊臣秀吉です。秀吉は、織田政権の後継者となりますが、信長の殺戮主義、恐怖政治を捨て去り、情けを持ったやり方へ変えて、天下へと突き進んでいくわけです。 織田政権と敵対していた、毛利家、上杉家に対し て、武門の誉れであると相手を褒め、そして安定と繁栄の世の中を作っていくのに力を貸して欲しいと声をかけます。上杉家も戦い疲れていますので、名誉を称えられ力を貸して欲しいと頼まれれば、乗れない話ではないんですね。実際に上杉家は話に乗 り、秀吉の政権作りに協力していきます。上杉家は、秀吉の政権作りに貢献があったということで、 五大老の一人となっていきます。
歴史がどんどん進んで、秀吉亡き後動き出したのが、徳川家康です。家康は、自分の力を背景に、自派閥を拡大していきます。そして五大老にまで、脅しを掛けだしました。最初に脅されたのが、前田家です。家康は前田利長に対して、「自分の下に弁解に来て頭を下げよ」と脅します。当時、頭を下げる ということは、臣従せよ(家来になれ)ということです。これに対し利長は、家臣団の説得に応じ、 自分の母親である「おまつ」を人質に差し出して、 頭を下げます。そして家康は、上杉家に対しても横槍を入れてきます。当時上杉家は領国である会津若松に戻っており、会津若松城では手狭とのことで新しい城を築いておりました。これに対し家康は、 「城を築いているようだが、これは自分に対する謀反が明らかである。自分の下にやってきて頭を下げよ」との理不尽な要求を行います。これに対して、 景勝、兼続主従は、「そのような理不尽なことに頭を下げることはできない。もし頭を下げれば、先代から引き継いできた義の精神が廃ってしまう。天下 に対しての示しが付かないばかりか、家臣たちもそのような主君を侮るであろう」ということで、兼続 が、家康に対して手紙を書きます。これが、直江状です。これに対して家康は激怒し、上杉討つべしとして十二万の大軍を擁して東海道を下ります。これ が、関ヶ原の戦いの始まりとなるわけです。
上杉家は、実際には家康とは戦ってはいませんが、 西軍方であったわけです。兼続は、家康の側近の本多正信と交渉し、米沢三十万石での存続を勝ち取ります。石高が百二十万石から三十万石へと、一気に四分の一となってしまいます。この時、兼続は人員の整理を行いませんでした。その結果、藩財政が大変苦しくなります。兼続は、財政改革を行うことによって、このピンチを凌いでいきます。まずはじめに、自らの石高を削ることから始めました。当時兼続の石高は六万石でした、それを五万石を藩に返上 し、残り一万石のうち半分の五千石を家臣である与 板衆に分け与えます。そして、かつて謙信が繁栄をもたらした経済政策を、米沢の地にどっと持ってき ます。経済と義の両立という師から教わったことを 米沢の地で実践し始めるんですね。奥羽の地には、 不毛の大地がまだ沢山ありました。川から用水を引 き、立派な水田を作り米の増産を図っていきます。 更に、金山銀山の開発を積極的に推し進めていきます。更に、殖産興業を行っていきます。上杉家には、越後上布の原料である苧麻(アオソ)栽培のノ ウハウがあるため、米沢盆地に移し替え、そこで栽培を始めます。さらに紅花、コウゾ、漆など換金性のある作物を次々に栽培し、鯉の養殖などを行います。彼の後半生を賭けた財政改革は成功し、三十万 石であった石高が、実質五十一万石となります。私 は、直江状を叩きつけた兼続も颯爽としてカッコいいのですが、むしろ、後半生の苦しいところから逃げ出さず、財政改革をやり遂げた兼続が大好きです。兼続 が行った財政改革は、兼続一代で終わったわけではあ りません。江戸時代の中期、米沢藩は赤字財政に陥り ます。この時、米沢藩では、第九代藩主上杉鷹山の時 代でした。鷹山は、財政改革を成し遂げた名君として著名ですが、鷹山がやった経済政策は、兼続が行った 経済政策を手本として学び、それを行ったんですね。 鷹山は、これからの米沢藩のためには子弟教育が大切 だということで、藩校(興譲館)を作っております。 この興譲館の基となったのが、兼続が作った禅林文庫という図書館です。これは蔵書五万冊と言われています。兼続は、禅林文庫を作った翌年に亡くなっています。鷹山は、興譲館において「義」の心、「仁」の心 を教えていきます。
 上杉謙信が、経済と義の両立を行いました。そして直江兼続が、米沢の地でそうしたことをやってい く、また、上杉鷹山もまた、過去を学び新しいことを行っていく。歴史と言うのは、過去に学び、引き継がれて、そしてまた新しい時代に合わせてやっていくということが行われるわけですね。こうした経 済と義の両立というのは、決してそこで終わってい るわけではありません。例えば、日本が近代黎明期 になっても、このテーマが浮かび上がってきています。福沢諭吉は、「学の独立は、経済の独立であ る」と言っています。つまり、経済的にうまくいか なければ、学校だって潰れてしまって教育が出来なくなってしまう。ですから、福沢諭吉は経済重視なんですね。福沢諭吉は、慶応義塾大学を卒業してい く学生達に、「胸に前垂れを付けても、心には兜を付けるべし」と言っております。人間は、とかく利のみに走りやすい存在だから、心の中にしっかりと武士道を持ちなさい。つまり、やっていいことと、 やって悪いことをしっかりと判断できる人間になり なさいと言っているわけです。経済と義の両立とい うのは、今日においてもしっかりとあると思います。おそらく「天地人」という小説が、物故作家でもない、巨匠でもない私が書いた小説が、大河ドラマとなりましたのも、「天地人」が持っているテーマが、現在において何かしら足りないテーマを深く 掘り下げていた、それと関係があるのではないかと思っております。

(報告:神谷直巳)