私が最も敬愛する熊野先生が4月4日に亡くなられました。私は呆然自失の状態に陥りました。
先ず、私の方が年長です。あえていうならば、戦地での無理は私の方が上回っています。残された寿命は私の方が短いはずです。それに熊野先生が奥さんを亡くされたのは、私が妻を失った後です。そんな年代順にこだわらなくても、私は熊野先生にいろいろ啓発してもらった、文字通り私は熊野先生の弟子なのです。通俗の敬称としてではなく、師弟関係としてこう呼びたいのです。
思えば私が公認会計土の第2次試験に合格したのは1952年、そのとき熊野先生は1年前に合格しておられました。そして第3次試験までのインターンの間、当時の不遇であった会計士補の諸問題解決のための運動をしたのが、先生を知るきっかけでした。その後の私は、先生の合理的で高邁な理論に、いつのまにか先生と行動をともにすることが多くなりました。その後の行動は皆、先生のご指導と精神的支えがあってできたことです。その後のチッソ事件もオンブズマンの運動も先生が精神的支柱でした。
私と先生との間は、世間ではとかく友達関係と思われているようですが、実のところは、先生は、私の人生の中で師と呼べる唯一の方でした。私が、公認会計士の道に入ったとき、指導してくれる先生も学友もなく、何の理念も思想も持たずに飛び込んだ私を、理論的に導いてくれたのは、実に熊野先生でした。英語の会計の本を開き、テキストとして指導を頂いたこともありました。50年以上も前のことです。
爾来、公認会計士協会の役員として、近畿支部の独立運動、第2次試験合格者に対する実務補習の講師、公認会計士協会自身による研究会の開催、企業の財務情報の開示に関する社会調査の実施など、先生の発想による業界への貢献は枚挙にいとまがありません。公認会計士協会近畿会の副会長としては、社会会計委員会を作って、社会の変革につとめられもしました。そのころの私は、常に先生と連携しながらであって、先生なくしては進め得ず、いつしか私たちは似た境遇になってゆきました。その後ますます似た人生を歩み、妻まで相前後して失い、抱き合って泣いたこともありました。その後のlO年近くの独身暮らしも同じようでした。
先生が病い篤きを知り、お見舞いに行くべきかどうか逡巡していたのですが、なぜ行かなかったのか、そして、過去を振り返って語り明かすべきではなかったのか、先生の急な訃報を受けて残念でなりません。
先生は、協会の役員などという形式や枠にはしばられない方で、枠をはずして見ると先生の真価がよくわかるというタイプでした。特に、チッソ事件とオンブズマンの創設は非常に重要です。チッソ事件というのは、証券取引所での上場維持のために決算粉飾を図ったもので、それを阻止しようとのわれわれの企図は成功したものの、公認会計士協会内部の評判は悪く、私たちの立場は四面楚歌、孤立無援のような状況になりましたが、これを精神的に支えることができたのには熊野先生の指導があってのことだったのです。あのとき、もしも業界がわれわれを支持してくれていたならば、昨今頻繁に起こる粉飾決算の事件は防止できたはずであり、社会的には先生の卓見をもっと受け入れるべきであったと、残念でなりません。また、その後、大蔵省の元局長(故人)から、われわれに損害賠償を請求するようにチッソに勧めていると聞かされたことがありましたが、そのときにも全く動じなかったのは、バックに熊野先生が控えているからとの、自信があったからです。もちろんその後チッソからは何の音沙汰もありません。それにしてもチッソ事件は、監査の流れを変える大きな転換点であったのに、機会をむだに逸した残念な事件だったと悔やまれます。
オンブズマンということばは、いまさら説明するまでもない世間の常識となっていますが、熊野先生が弁護士など他の2人とともに代表者となって、我が国で初めての市民オンブズマンという組織を作り、その後、情報公開を進められました。それはその後、「官官接待」という新語を生み、交際費の公開や裏金の摘発といった効果を上げ、世の中を変えるにいたったのです。この動きは全国に広がり、今やオンブズマンなくしては社会の正常な動きは期待し得ないようになりました。この運動から「アカウンタビリティ」ということばが世間に広がりましたが、一般の人に理解しにくいところから「説明責任」ということばに代えて広く流行するに至りましたが、このアカウンタビリティという概念こそ監査の最も基本にある重要なことばであるにもかかわらず、監査の世界で永らく謳われなかったのですが、これもオンブズマン活動で世に出すことができたのです。
私は、先生のご指導のもとにこれらの運動に参加しましたが、そのほか、雑誌「企業実務」に交代で執筆したり、阪南大学の教授としての記念論文集の執筆に参加させて頂いたり、日本会計研究学会にともに出席させてもらったりしましたが、なんといっても、同業者の集まりである一水会における先生のリードはぬきんでていました。ときには高邁であるがために敬遠されることもありましたが、その点が先生の真骨頂でありましょう。それは先生の著作物によく現れていると思います。
振り返って見ますと、先生は専門家にありがちな偏狭さがなく、幅の広い視野をお持ちでした。それにもかかわらず、先生をリーダーとして仰ぐことができなかったのは、単に公認会計士界にとってだけでなく、広く社会にとっても、痛恨のきわみというべきです。
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