うなぎの棚卸 |
うなぎの歴史は古い。うなぎといえば万葉集の大伴家持の「痩せたる人を嗤咲へる歌二首」が口遊まれる。 小野小町の美容食の中にうなぎの脂というのが入っていると何かの本で読んだことがある。調べてみると、出典は「玉造小町子壮衰書」。熊の掌、煮たる蚫(あわび)、鶴の頭などど並んで鰻の脂が膳にのったという。美容食というより山海の珍味を取り揃え贅を尽くした趣だ。この古本、予と称する人物が道中老いさらばえた哀れな老婆に会う。身の上を問うと、昔は誠に絶世の美女、多くの貴紳の求婚を斥けて帝の寵を得ることを願い贅の限りを尽くしたが、いつしか近親者は世を去り、次第に貧しく惨めな生活に落ち込んでいく。その後一人の猟師と結ばれ男児を産んだが、ますます衰え醜くなっていった。男のため子のため尽くすのだが、醜くなった今、男は冷たい。かくなるうえは仏の加護にすがるしかないという内容だ。鰻の脂も老いには効かなかったらしい。 京では元禄時代に蒲焼き屋ができた。江戸では更に遅く安永、天明の頃に登場した。このうなぎ、昔は丸のままブツ切りし縦に串を刺して焼いて食べたが、その形が水辺の蒲の穂に似ていたことから蒲焼きとなった。もっとも江戸期には今と同じように横に数本串を刺すスタイルに改められた。落語「首提灯」の中で江戸の職人が田舎侍に向って啖呵を切る場面がある。「二本差しが怖くちゃ焼豆腐もうかつに喰えねえ。おでんだって一本刺してらい。気のきいた鰻は四本も五本も差してら。」この頃既に横刺しだったことがわかる。 江戸風の蒲焼きは、背開きにした鰻を一旦白焼にして蒸し、タレをかけて炭で焼く。関西では腹開きした鰻を蒸さないで何度もタレをかけて焼き上げる。口に入れると、関東風は脂が抜けてやわらかく、関西風はしゃきっと歯ごたえあって香ばしい。裂きの違いには理由がある。江戸は武士の街、腹を切るのは忍びないということだ。一方、関東では焼く前に頭を落とすが、関西ではつけたままだ。江戸武士は腹を切るのはイヤでも首を落とすのは構わないということだろうか。 会計士の大先輩に鰻の棚卸の話を聞いたことがある。養鰻業者のビニールハウスの内に碁盤の目状の池があり、中に鰻が泳いでいる。鰻はその大きさでグルーピングされている。期末には池の水を抜いて鰻を取り出し、目の大きさの異なるふるいにかけて再度等級を選別する。等級別の鰻総重量をサンプリングした1匹あたり重量で割ると鰻の数が求められる。これに与えた餌の価格を乗じて進捗度に応じた鰻の期末仕掛品評価が行われるという。大先生が若かりし頃ゴム長はいて鰻を数えていたと思うと何となく可笑しくなる。 鰻の学名はAnguilla
japonica。そして最大の消費国は日本だという。つまり名実共に日本を代表する魚である。一方、その回遊範囲は国際派だ。虚子の新歳時記には「鰻は恐しく移動力の旺盛な魚である。大洋の深淵に生れて春運動を開始すると、苟も濕雨あるところ、 |
(安原 徹) |