特集

開業奮闘記
「なんか面白いことやりたいね」

倉島 進

 
  「なんか面白いことやりたいね」と同期の岩井正彦さん、桶谷守孝さんと3人で会社を始めてからもう5年がたちます。いつの間にか、スタッフも増え、人数の拡大とともに3回目の引越しを期に、弁護士事務所と同居することになりました。
 現在の事務所の所帯は会計チームが7名、法律チームが4名の事務所で、設立当初に比べて女性が増えたこともあって小奇麗な事務所になりました。ある日、スタッフルームの入り口を空けた瞬間「まるで会社みたいやね」という言葉を発してしまいました。と同時に少しの責任感を感じました。

 当初は、顧客もそんなにいるわけではなく、それぞれが生活していけるかなというくらいの顧客をそれぞれが担当しており、別に、会社という組織があるからといって、そこで仕事があったわけではありませんでした。ただ、将来を考えたとき、何か動ける場所がほしかったのです。だから、株式会社でなくても、有限会社でも、合資会社でも何でもいいという感覚でした。
 しかし、今後について、いろいろと3人で話をしているうちに、どうせやるなら、きちんと会社として存続させていくことも必要じゃないかなということで、株式会社を設立することにしました。
 
(ある女性との出会い)
   会社を設立する少し前に、異業種交流会である女性と知り合いました。彼女は大阪市内でデザイン会社を経営している社長です。岩井と私は、彼女に会社の設立の話をすると、彼女が私達の会社に監査役として参加してくれることになりましたが、彼女の存在は大きかったと思っています。なぜなら私達が当然のこととして話をしていることが、彼女にとっては、見当違いのことも多く、よく指摘されました。私達は、会社の社長さんと、仕事を通じて知り合ってきましたが、いざ自分たちの会社をアピールしようとすると言葉が思いつかないのです。パンフレットを作るにしても「なにそれ・・・」という彼女の素朴な疑問を受け、ひとつずつ答えるようにして、その中身をひとつずつ、決めていきました。顧客である会社は、会計士に対してなにを求めているのか?税理士との違いをどう認識しているのか?今までの会計事務所となにが違うのか?わざわざブレインを選ぶメリットとはなんなのか?こんなことを、夜中まで、話し合いながら、やっとブレインの理念や、パンフレットが完成し、株式会社ブレインが設立されました。
 
(ブレインという名前)
   ブレインという会社名も当初は、3人それぞれの思いの中で、自分たちのやっていることが、通じるような名前がいいねという観点で名前を出し合い、30近くの名前をあれでもないこれでもないと検討しました。名前の検討だけで2週間近くが過ぎ、だんだんあせりが出てきましたが、どの名前をとっても、しっくりせず、ただ闇雲に時間ばかりが過ぎて行くばかりでした。だんだんみんなめんどうくさくなったのか「ブレインでええんちゃうん!!」という言葉が出た時、会社名はいつでも変更できる。それでいこう。ということで決定されました。今まで時間をかけて悩んできたことが、なんだったんだという気持ちもなかったわけでもないけど、今では、その名前でよかったと思っています。
 
(インキュベーション施設に入居)
   会社を設立した時に事務所をどうするかということで、その当時たまたま、電車のつり広告で見つけた梅田の第4ビルにあるレンタルブースで設立することにしました。いきなり、会社所在地が大阪のど真ん中の事務所となってしまったのです。現実は、机がひとつ置いてあるだけでしたが、名刺には、大阪駅前第4ビルと入っていて、名刺交換するたびに「いい場所で会社をされているんですね。家賃高いでしょう」とよく言われました。実際は、月額3万円だったのですが・・・それと前後して、(財)大阪産業振興機構が保有している、起業家支援のためのインキュベーション施設への入居者募集広告を見つけました。すでに第4ビルに入居していたのですが、何かの縁を感じ入居することにしました。いきなり事業所が2箇所になってしまったのですが、これが、ブレインのひとつの流れを変えてくれることになりました。そのインキュベーション施設は、1年間という期限付きではありましたが、卒業するときに、(財)大阪産業振興機構から、その施設運営の一部をお手伝いすることになり、今後入居してくる起業家に対して、受付業務から、セミナー等の開催を計画し、実施していくというものです。私達にとっては、絶好の機会であり、その後4年が経過し、現在も継続しています。
 
(ブレインセミナー)
   ブレインの知名度を上げるために、セミナーの開催を利用しました。ブレインセミナーと銘打って、年間50回近く開催することにしたのです。外部の協力者を含め、多種の方々に講師をお願いし、セミナーの開催を達成しました。
 当然、集客には苦労しました。1人しか集まらないこともありました。本町から、梅田までのすべてのビルへのビラまきや、梅田の街頭でのビラまきも、アルバイトを使いながら、自ら毎日歩いて、ビラまきも行いました。また、新聞等に話題を提供して記事として、取り上げてもらう工夫をしたこともありました。
 これらのことがあって、今、なんとなく、ブレインの名前は、少しずつであるが、有名になってきているような気がします。
 それと、講師料などほとんどないことを承知の上で、快く講師を引受けていただいた方々とは、現在も交流を深め、私達の貴重なパートナーとなっています。
 
 こんなことを繰り返しているうちにはや5年が過ぎました。振返ってみれば、当初3人で話していた「なんかおもしろいことやりたいね」を通してきたような気がします。5年が過ぎ10年へ向けて新たに、いろいろなことを始めるときがきているような気がします。従業員も増えてきたことから、もう3人での「いつつぶれてもいいや」という感覚から「いつまでも存続させる」責任へと変わっていっていることを実感しています。
 これからも、よろしくお願いいたします。